認知症の原因の半数以上を占める「アルツハイマー型認知症」は、
女性のほうが有病率が高いことが知られています。
従って、当然のことながら妻が認知症に罹患し、夫がその介護を担うことがあります。
認知症の介護において、介護者が「夫」の場合、
夫ゆえの難しさがあり、夫だからこそ窮地に陥る可能性があることを知っておいてほしいと思っています。
以下はあくまでも、私が見てきた危うい状態に陥りがちな「夫の姿」を書き記したものであり、
すべての方に当てはまることではありません。
ただ、自分は大丈夫だと思っている方こそ、私は心配しております。
妻の介護を担う夫の方々、そして、その夫をサポートする方々、
どうかこの小文をご一読いただき、役立ててもらえれば幸いです。
■ 「夫」の弱点
そもそも夫の多くは、以下の特徴(弱点)を持っています。
・日常生活において妻に強く依存しているが、その自覚がない
・家事が苦手である、あるいは、できない
・妻とのコミュニケーションがとれていない(自分はわかり合えていると勝手に思っている)
・自分の老後は妻が見てくれると普通に思っている(一片の疑いもなく信じている)
いかがですか? 心当たりはないでしょうか?
■ 「夫の介護」のありがちな状況
次に「夫の介護」にありがちな5つの状況についてみていきましょう。
① はじめは張り切る
妻の認知症が始まったとき、夫は少なからずショックを受けますが、
初期においては認知機能障害は軽度であり、それほどの介護負担はありません。
夫は何とか気持ちを切り替え、前向きに考えるよう気持ちを奮い立たせます。
介護について勉強し、あれこれ考え、自分なりの介護論を打ち立てて、
中には外来診察の場でご自身の考え方を熱心に語ってくださる方もいます。
これまで仕事ばかりに打ち込んできて、家庭のことは妻に任せきり。
「いよいよその恩返し」とばかりに、意を決して取り組みを始められます。
もちろん、このこと自体決して悪いことではありません。
しかし、そうした前のめりの決意というのは、介護を自分だけで背負い、
やがて自分を追い込むことになってしまいます。
デイサービスなどの介護保険サービスを利用して、ご自身の負担をできるだけ減らすようお話ししても、
「もう少し自分で頑張ります。いや、頑張らせてください!」と、
ご自身のやり方を貫こうとするのです。
② 合理性を追求する
夫の介護のやり方は、仕事の延長になりがちです。
すなわち、合理性を追求してしまいます。
人を自分の思い通りに動かすことはとても難しいことです。
記憶力、理解力、判断力の落ちた認知症の方は、
理屈が通用しづらいため、さらに難しいと心得るべきです。
認知症介護の日常は、以下のように、夫にとって了解不能なことが次々と起こってきます。
・通帳や印鑑などをしまい込んで紛失してしまう(同じ場所に置けと言っているのに)
・洗剤を入れずに洗濯機を回す(洗濯機の上に「洗剤を入れること」と大きく貼り紙をしたのに)
・ 買い物に行くたびに卵を買ってきて、賞味期限切れのものを含めて冷蔵庫の中に卵があふれている(買い物に行く前にメモを書いていくよう言っているのに)
・ 夏の暑い日にエアコンをつけておくよう指示しても消してしまい、むっとするような暑い室内で過ごしている(リモコンを隠したら椅子に乗って壁のコンセントを抜いてしまった)
いくら言って聞かせても行動を変えることのできない妻に
夫の我慢は限界に達します。
夫が大きな声をあげれば、お互いに感情的になって罵り合いになる。
あるいは、妻は硬い顔で黙り込む。
お互いにほとほと疲れ果ててしまいます。
日常生活においてこのようなことが繰り返されれば、
夫婦の関係性が悪化し、顔を合わせればけんかになるという悪循環に陥ってしまいます。
③ 感情への配慮がおろそかになる
人は感情の生き物です。
認知症の方も感情はしっかりと残存しています。
ただ、そのコントロールは次第に難しくなっていきます。
「感情を丁寧に扱うこと」はとても大切なのですが、夫はなかなかこれができません。
排泄を例にお話ししましょう。
認知症の方は徐々に排泄のコントロールがうまくいかず、
失禁することもありますし、その処理をうまく行うことができなくなります。
時々、排泄に失敗してしまうようになった妻に対して、
夫は紙パンツを履くよう指示します。
しかし、そもそも排泄の失敗を認めていない妻は、
紙パンツの着用を断固拒否し、自分を侮辱した夫に対して猛烈に怒ります。
用意した紙パンツにはそっぽを向き、汚れた下着を替えようともしません。
排泄の問題は羞恥心も絡む非常にデリケートなものです。
面と向かって失禁を指摘されれば、
それは、恥辱であり、悲しみ、抑うつ、怒り、怨恨などの気持ちを生じさせます。
そして、二度と失禁を指摘されたくない気持ちから、汚れたものを隠したくなるのです。
失禁を指摘されればされるほど、
汚れた衣類は、ゴミ箱 → タンスの引き出し → 押し入れの布団の間と、
より遠く、深く、見つかりにくい場所に隠されるようになるのです。
自分としては至極当たり前のことを言っているまでなのに…。
夫はそう考えるかもしれませんが、
このとき、妻の感情への配慮がおろそかになっているのです。
適切に扱われなかった感情は暴走し、
夫からすれば理解不能な行動をさらに助長してしまいます。
④ 認知症の進行にいらだつ
認知症は徐々にではありますが、確実に進行していきます。
もの忘れのスピードが速くなり、何度も同じことを聞かれ、
できないことが増えてくれば、介護負担も増大します。
はじめは認知症のことについて、勉強して理解を深め、
妻に尽くすことを宣言した夫であっても、
認知症の進行によって心身のストレスが大きくなれば、いらだち、焦りを募らせていきます。
私の診察室でも、いらだちを押さえられず、
「進行を止める薬はないんですか!?」と語気を強める方がいます。
認知症の治療薬に決定的なものはないことは、夫も重々承知しています。
でも、気持ちを抑えることができず、
医療の至らなさに怒りの矛先が向かってしまうのです。
⑤ そして、うろたえる
いよいよ妻の認知症が進行すると、日常生活全体に見守りや介助が必要となります。
介護負担が著しく増大し、物事が思った通りに全く進まないことに苛立ち、
妻をきつく叱ってしまいます。
感情的になってしまった夫は、自責の念に駆られ、気分が落ち込みます。
日々の介護生活で心身の疲労は積み重なり、
「この先どうなるのか…」とうろたえます。
また、今まで従順だった妻から思いもかけず口答えされることは、夫にとって最もつらいことの一つです。
当初、自分で頑張ると言って大見得を切った手前、今更ながら周囲に助けを求められません。
このように、うろたえる夫の姿を、私は数多く見てきました。
本当に哀しく、切ない状況です。
では、どうすればいいのか。
私は改めて、連携の大切さを夫に説きます。
■ 介護保険サービスをしっかり利用しましょう。
■ 息子や娘にしっかり連絡する。お嫁さんやお婿さんにだって協力をお願いする。家族で負担を分かちあいましょう。
■ そして、自分のなかにある理想の家族像を打ち消し、不要な罪悪感を取り除き、介護を第三者に委ねていきましょう。
■ 全か無かに陥らない。すべてを委ねる訳ではありません。サポートを受けながら、自分自身のやれる範囲でやっていきましょう。
■ 「夫」をサポートする方々へのお願い
夫は周囲からのサポートに対して、
「大きなお世話だ」と、しばしば拒絶的な態度をとってしまいます。
人の意見を聞き入れず、さらに殻に閉じこもります。
こんな態度に周囲も愛想を尽かしてしまいますね。
しかし、夫は苦しんでいます。
男というのは、人に弱みを見せられないのです。
自分で招いた部分も多々ありますが、
どうか、そんな夫を見捨てず、温かい目で見守り、
いざとなったら躊躇なく介入することをお願いしたいのです。
■ 悲劇を起こさないためにも
「妻に手を挙げてしまうことがあるんです…」
夫からのこうした告白はまれではありません。
その告白には懺悔の気持ちとともに、
「自分の行為を止めてほしい」といった切なる願いが込められていると私は感じます。
外からは見えない家庭内の介護において、
心理的・身体的虐待は容易に起こりうるものです。
そして、それが、傷害事件や心中に繋がることもあり得ます。
私が診察する患者さん家族の中にも、一つ間違えば、とんでもない悲劇が起こりかねないと思わせる事例は存在します。
「夫」の介護は細心の注意を要するトピックであり、その危うさについて心得ておくべきものだと考えています。
たまゆらメモリークリニック 小粥正博